Angela Harms氏は近頃、Norm Kerth氏のアジャイルのふりかえりの“大原則”についてブログに書いた。この大原則には次のように書かれている。
私たちの知見はどうであれ、その時に知っていることや持っている技術や能力、リソースやソリューションを前提として、すべての人が最善の仕事をするということを私たちは理解していますし、本当に信じています。
氏はまず、この大原則がどのようにして非難の性質を回避しようとしているのかについて書いている。
非難に依存しないやり方でビジネスをする方法を見つける人々がいたということは私に希望を与えました。私の経験では、非難は創造性の邪魔になります。学習や成長の妨げにもなります。なので、私のようのに、非難したりされたりすることなく、生産的な仕事をしながら生きていきたいと思っている人を見つけられてうれしかったです。
さらに、“最善を尽くしたか”という言葉が人を見下したような、陰険な言葉と思われることがあるという事実について議論を進める。
この大原則にはすべての人が最善の仕事をするということを“信じる”と書いてありますが、どういう意味でしょうか。もしすべての人がいつもベストを尽くしていたら、それはどういうことでしょう。比べるべきベストでない状態が存在しないということになるのではないでしょうか。
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すべての人がいつも最大の力を発揮している(これは真実ではありません)という意味だと思う人もいると思います。“最善を尽くす”という言葉は大雑把で侮蔑的な意味しかないと考える人もいます。いつも自分が最善を尽くしているわけではないのはわかっているのだから、他の人が最善を尽くしているとは考えられないと指摘する人もいます。
氏は2007年のEster Derby氏のこの大原則に関する議論について言及している。Ester Derby氏が議論したのは、全力を尽くすことを邪魔するさまざまな要因についてだ。身体的感情的状態から座りやすい椅子やきれいな空気が身近にあるかどうかまで広範囲に議論している。
Ester Derby氏の結論は、
この大原則は、目の前の仕事にすべての人の全力を出せばいいということではありません。十分な働きを行わない人でも終身雇用は守られるべきだということでもありません。フィードバックは必要ないということでも、雇用され続けるための働きの改善は不要だという意味でもありません。この大原則が説いているのは寛大な解釈を行うことです。人は失敗をする可能性があり、能力もさまざまであるということを認識することです。人を非難しない。そして、慰めもしない。尊敬を持って人を扱うことを説いているのです。
George Dinwiddie氏は、Angela Harms氏のブログにコメントを寄せて、この大原則の背後にある意図についての自身の理解を書いている。
どのようにして考えれば“最善を尽くす”ということが“全力を出す”という意味になるのは私はわかりません。…全力というのは簡単には説明できないかもしれません。虚構かもしれません。人間にとっての“最善”は、本当に多くの次元を網羅するものです。先に引用したふたつの言葉はありきたりのものですが、人を侮蔑したり、最善を尽くしたふりをするときに使われるだけだと思います。文脈にとらわれない実現可能な“ベスト”を目標に仮定しているのです。
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私はこの大原則はとても便利だと思いますが、安全にふりかえりを行うための感覚を作り出すためには少し不十分だと思います。
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ミスした者や能力不足の者を“容赦なく打ちのめす”のはとても楽しいかもしれませんが、あまり役に立ちません。“私がすべてでお前は無だ”。私が正しい、おまえは間違っている”。こういうのは昔からある非難のスタンスです。個人的に思うのは、このスタンスへ飛躍するのは簡単だということです。大原則が役に立つのは、自分の不調和に気付き、態度を変えることを支援してくれるからです。運が良ければ、まだ何も言う前に気付いて態度を改めることができます。
氏は2007年にこの大原則について書いている。
同僚の間抜けな動きを調べますが、その間抜けな人物に対して尊敬を持ち続けられるようにとても軽く扱いたいと思っています。Mahatma Gandhiが言ったように“罪を憎んで罪人を愛せ。”です。• おそらく、同僚には少し欠けている知識か技術があり、それは簡単に補完できるかもしれない。
• おそらく、物事がうまくいかなくするような思い通りにならないやり取りがあり、根本原因の分析やシステム的思考を用いれば更なる問題を回避できるかもしれない。
• まだ気付いていない要因があり、この要因を理解すれば同僚の振る舞いは全く間抜けではなかったと断定できる。
• ひょっとしたら、大原則に従うことで愚かに見られなくて済むかもしれない。どんなときも、現在の誰かを非難するより過去から学ぼうとすれば、この大原則が分別の指針として分かりやすいでしょう。
どうだろうか。ふりかえりの大原則は便利だろうか。それとも能力の改善を行わないことの言い訳に使われてしまうだろうか。